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2017年5月23日 (火)

自分の中の“過去世(?)”の記憶

 えー、学術とか教義上の話ではなくて、スピリチュアリズムとか、与太話に近い話です。

 私は、持っている信仰上、一応、前世(過去世)、現世、来世という三世の生命観を信じています。但し実感したことは無いけどね。
 でも、仏教研究者や、僧籍を持って布教活動している人の中には、「生命は永遠であるという三世の生命観は方便である」と唱える人もいるらしい。

 その一人が、インドの政治家で、晩年、多数の不可触民(カースト制度にも組み込まれない最下層の賤民とされた人たち)と共に仏教に改宗した、アンベードカル。その思想継承者とされる佐々井秀嶺(ささい・しゅうれい)氏は、「前世も来世も、極楽も地獄もない、神もいない」と叫び続け、今、インドで佐々井秀嶺氏を慕うこの新仏教の“信者”は、1億人を超えているとも言われている。

 確かに、三世の生命観は、釈尊の説法の当然すぎる大前提となっている。しかし、もしそれを否定したとしても、釈尊の教え自体に大して不都合は生じないような気もする。
 さらに、現実の今の人生における信仰活動として考えたときに、「三世」観は、いろいろな現象の説明にはなるけど、信仰のモチベーションを高める要素になるかどうか。少なくとも自分には当てはまらないと思う。

 年齢的に、もう晩年に差し掛かる年代ではあるけど、「今、信仰をより深めれば、来世はより幸せな境遇に生まれてきますよ」と言われたところで、「よしっ、じゃあ頑張ろう」という気持が露ほども湧いてこないのは、どうしようもない事実である。
 だからおまえは信心が足りないんだ、と言われればそれまでだけど。

 と、ここまでが前提。ここから先が、与太話です。
 前世を実感したことがないと言いながら、実は、「自分は過去に、この時代、この場所にいたことがあるのではないか」と感じたことが、これまで2回あった。

 一つは、映画の「カサブランカ」を見たとき。
 その中に、ウィキペディアの説明を借りると、「店内でドイツの愛国歌『ラインの守り』を歌うドイツ軍士官たちに憤慨したラズロ(主人公)が、バンドに『ラ・マルセイエーズ』を演奏させこれに対抗し、その後店内の全ての客が『ラ・マルセイエーズ』を歌うシーン」がある。
 このシーンを見たときに、そのスクリーンの中の空気感は、どうしようもなく既知のものだった。自分は間違いなく、こういう“ような”場所にいたことがある、と。

 もう一つは、何かを見て感じたのではなく、いつの間にか自分の記憶の中に棲みついている映像なのだが、それは日露戦争開戦の時の街の様子である。少なくとも高校生の時には、もう記憶として認識していたのは憶えている。
 割と人通りの多い道で、子どもたちが「万歳」を叫びながら駆け抜けていく。それを冷ややかに見ている自分がいたのは、これもまた消そうにも消せない映像である。
 たとえば「二百三高地」みたいな映画やドラマを見て、その映像が無意識のうちに残っているということは考えられるが、少なくとも映画は見ていないし、まぁドラマも、見ていないと断言はできないが、高校生以前の年代でそういうものに興味があったとは考えにくい。

 これらの記憶は、厳密な意味での宗教的な過去世の実感とは、たぶん別次元の話だと思う。何年か前、「前世占い」なんていうものが流行って、タモリあたりが「俺の前世はカッパだった」と騒いでいたことがあるが、むしろそちらの方に近いのかもしれない。
 ただ、どちらの記憶も戦争が絡んでいるというところに、「もし、過去世に本当にそういう場にいたのなら、自分の今の役割も、そういう時代をくぐり抜けてきたことと無関係ではないはず」という自分への枷(かせ)みたいなものを、つい掛けてしまいそうになる。

 我がお師匠さんは、もうずいぶん前から、我が国の右傾化、全体主義化を憂い、警告を発しておられるが、太平洋戦争に一気に向かおうとしているあの時代のリアルな経験を持っている人、またそれを直に聞いたことがある人なら、今の時代がそれと重なっていないかどうか、ぜひ比較し、我々に教えて欲しいと思う。心からそう思う。

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