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2017年5月11日 (木)

行き過ぎた「差別批判」は誰を守ろうとしているのか

 9月下旬のことなので、ニュース性はかなり薄まっているし、全国的にそれほど騒がれたわけでもないので、知らない人や忘れている人も多いと思うが、鹿児島県志布志市のふるさと納税PR動画の一件は、まぁいろいろ考えさせられました。

 市としては公式には削除しており、Youtubeに何本かアップされているけど、いずれはそれも消えてしまうだろうから、まずは今のうちに一度見ておいて下さい(https://www.youtube.com/watch?v=9GdvQoHycYY)。

 いずれ削除されたときのために、ざっとあらすじを書いておくと、全身が濡れている水着姿の少女がまず現れ、「養って」と見ている人に訴えかける。ナレーターでもある「ぼく」は、養うことを決意し、おいしいものを食べさせたりゆっくり眠ることのできる環境を与えてあげる。一年が経ち、少女はお礼を言いながらプールの水の中に飛び込んでいくのだが、その時に少女はウナギに変身、養っていたのがウナギであることを示すのだ。そしてまだワンカット続きがあって、ラストシーンはまた別な少女が現れ、「養って」と呼びかけるところで動画は終わるのです。
 余計な説明かもしれませんが、養殖ウナギの出荷量が鹿児島県一である志布志市が、その支援ための「ふるさと納税」を県外の人に呼びかけたものでした。

 ところが、この動画に対し、市に多くの非難が寄せられ、1週間もしないうちに削除したのだとか。
 ネットに散らばっているニュースを見比べて自分なりにまとめてみると、大きく二つの非難があるように思います。
 一つは、女性差別に通じる、という括り。
 少女が出てきていきなり「養って」と懇願し、「ぼく」がそれを決意して“施し”をするのは、「男は養う側、女は養われる側」という昔ながらの封建的な男女観の表れである、というものです。細かい付随意見を入れると、まぁいろいろとあるのですけどね。
 二つ目は、まぁ何というか、「エロである」、に集約されると思います。
 最近耳目を引く女性監禁事件を連想させるとか、少女を養うというシチュエーションが、「育ゲー」(少女を小さいうちから囲って自分好みの女性に育てていく、というゲームだそうです。私はやったことありませんが)を連想させるとか、ずっと水着のまま育てるというのは児童ポルノに近い、とかなんとか。だいたい、水着の女の子に「養って」と言われたら、「エロ」を連想するなと言う方が無理、というのもありました。
 その他、擬人化されたウナギを食べるのは“食人”を連想させる、なんていう苦情もあったそうだけど、それは少数意見と思っていいでしょう。

 さて、私は広告を作る側にいますが、正直に言うと、このPR動画、不快感はありませんでした。
 むしろ作り手にある種のセンスを感じたというか、上手く作ったな、というのが第一印象です。
 まぁそんなことを書くと、今の時代、「おまえに女性蔑視の心があるからだ」とか、「児童ポルノ愛好家じゃないのか」とか、すぐにあらぬ疑いをかけられたりするので、本当は黙っていた方がいいのかもしれませんが、やはりこの動画に対する非難は、文章表現で以前から議論されている「言葉狩り」に通じるものがあるように思います。

 「言葉狩り」とは、思いっきり簡単に言うと、「社会的弱者を差別する意図などまったくない言葉なのに、差別用語だとして使用を禁止もしくは自粛しなければならない風潮」のことを言います。
 よく引き合いに出されるのが、「手落ち」はよくて「片手落ち」はダメ、と、長い間自粛させられていること。もっとも最近は度が過ぎて、自治体や公共団体は「手落ち」も使わないようにしているそうですが。

 ここでいう「手」とは、からだの一部の「手」ではなく、「手段、方法」としての意味合いがあります。「いい手を思いついた」なんて、今でもふつうに使われていますよね。
 確かに、からだの一部が不自由な人に対し、もともと差別用語として発生した言葉も少なくありません。そういう言葉の使用の自粛は当然としても、だからといってからだの一部が含まれる言葉にことさら敏感になり、必要以上に「使わない」「使わせない」方向に向いていくのは、それこそ言葉の持つ本来のイメージを制限し、大きく言うと、「想像力」「空想力」「思考力」を日本人から奪ってしまうことにつながるのでは、と思っています。

 上の段で、「からだの一部が不自由な人」と、あえて書きました。これは今では「失礼のない言い方」として市民権を獲得しています。
 しかし、たとえば「目の不自由な人」「耳の不自由な人」という表現は、その人の「機能が十分ではない部分」を、逆にことさら強調していることにならないのか、と、もう数十年前に作家の筒井康隆が指摘しており、私はそれはまったく正鵠を射ていると思っています。

 さて、志布志市のウナギのPR動画に戻りますけど、そもそも「養って」は、ウナギの言葉です。ウナギ養殖振興のためにウナギにその言葉を言わせるというのは、ふつうに思いつかない視点で、これを本物のウナギを登場させたり、あるいはウナギのゆるキャラを作って言わせるのでしたら、何のインパクトもないでしょう。
 あくまでも作り手の視点で言うと、これから大人になっていく年代の人間に言わせるから、「一つ応援してみようか」という意識を醸成させるのだと思います。
 敢えて、「男は養う側、女は養われる側…」の非難を回避するなら、最後に出てくる「養って」の別の子は、男の子にすれば良かったかもしれません。実際、養殖ウナギは圧倒的にオスが多いそうですから。
 まぁ結果論ですけどね。

 そして、「エロ」である、との非難。
 確かに制作側とて、「エロ」、というか、「エロス」をまったく意識していないということはないでしょう。
 でもそれを言うなら、TVのCMに溢れている水着の女性はすべて排除されなければならないし、レースクィーンなど、各種ショーに彩りを添える「女性らしさ」を強調したコスチュームのキャンペーンガールたちも、皆、失業させなければなりません。
 それとも、女性はダメで、水着のムキムキの男性ならOKとでも言うのでしょうか。

 さらに、「児童ポルノ」に通じる、というのは、非難のための非難としか思えず、実際、演じている女優さんは20歳の女性だそうで(=写真下、動画の冒頭の一コマ)、可愛いコだけれど「児童」にはほど遠いし、実際に動画を見てお分かりの通り、ニュースに出るような監禁事件をこのPR動画に刺激されて起こすなど、どう道筋を付けようとしても繋がらないし、ましてや「育ゲー」を連想するのは、実際に育ゲーをやったことのある人だけでしょう(だから私は連想しませんでした。くどいようですが)。

 この、「言葉狩り」的に世の中の様々な「表現」に非難を向ける人たちは、今、確かに増えている実感はあります。
 でも、その人たちは本当に、何を守ろうとしているのか。
 私自身、実は片眼が見えないというハンディがあります。
 「ハンディ」なんて言葉を使うと、「全盲の方と比べれば、たとえ片方でも『見える』ということは大きくて、実際、車だって運転しているじゃないか」という人もいますけど、隻眼の人なら分かると思うけど、段差が分からなくて踏み外したり躓いたりとか、距離感がないため、パーキングや高速などの運転席側の発券機に近付きすぎてぶつかったりとか、それなりに不便はあるのです。
 なので、社会制度的に視覚障害者として認定されれば、ある部分でラクになるかも、という期待はありますが、それでも市井の人々に守ってもらいたい、という気持はまったくありません。もちろん、言葉の向けられ方を含めて、です。

 折しも、電通の若い女性社員が、月100時間を超える残業とパワハラで心身ともに疲れ果て、自ら命を絶ったことが労災と認定されたとの報道に、武蔵野大学の教授が「残業100時間程度で過労死とは情けない」と書き込み、炎上したとのニュースがありました。
 教授はたちまち書き込みを削除して「言葉の選び方が乱暴で済みませんでした」などと謝罪、また武蔵野大学のサイトでは学長名でお詫びの文書を掲載、「事実関係を調査の上で然るべき対応をとる」と、何らかの処分を科すことを示唆しました。

 この教授の書き込みは、遺族にとっては確かに心ない言葉だっただろうし、個人の意見といえど、公器といってよいネット上に無造作に晒すのは、大学教授という立場にいるものにしては、やはり事理を弁えない行為と非難されても仕方ないでしょう。
 しかし、教授と大学側の炎上後の一連の対応は、本当に正義の心が為したものかどうか。私は、申し訳ないけれど、実は「ネット炎上」という現象が圧力になったのではないか、と考えてしまいます。

 志布志市の動画も、これを見て本当に人権侵害に繋がる不快感を感じるかどうか、予備知識を与えないでアンケートを取ってみれば、果たしてどういう結果になるでしょうかねぇ。
 「弱者を守る」「正義を果たす」という大儀に託けて、大多数ではない勢力が、本当は許容される範囲の表現(広い意味での)を制限するようなことが、今、ここかしこでどんどん広がっているような気がします。
(2016.10.12)
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