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2017年6月 7日 (水)

「わたしをみつけて」それから…(2)

 五十嵐と話をしていて、微妙に昼食の時間が取れそうもないと判断した弥生は、何か買い置きのもので済まそうと、家に寄ることにした。
 看護学校に通い初めて1年、朝は家から病院、昼は病院から学校、そして夜は学校から家へと、三角形の道のりを判で押したように繰り返してきたので、この時間に自宅へ向かうのは、景色も朝とは違い、新鮮だった。
 もうちょっと時間があれば、豆腐も買えたのになぁ、と、少しだけ口惜しがりながら、神田の家の前の児童公園に差し掛かった時だった。小学生らしき男の子が、ブランコに乗って、漕ぐでもなく、ぼんやりと揺られていた。
 神田の一人息子、勇太だった。

 弥生とは、むろん、顔見知りである。神田がDVを繰り返す恋人と別れるのにすったもんだした時、まだ二年生だった勇太を何度か預かり、時には家に連れていって食事を出したりもした。
 その男と何とか別れられ、落ち着いてからは、勇太の顔も見ていないが、弥生は、小さな友だちのような感覚を勇太に向けていた。

「あれ、勇太君?」
 弥生は思わず声をかけたが、勇太はビクッとして弥生の顔を認めると、走って自分の部屋に駆け込んでいった。その時初めて、今日は平日であり、勇太がこの時間に家にいるはずがないことに気付いた。
 具合が悪く学校を休んだのだろうか。でもそれなら、いくらアパートにつながっている公園とはいえ、外で遊んでいるはずがない。弥生は自転車から降りると、部屋のチャイムを押した。
「勇太君、私よ、弥生。いるんでしょ? 具合、悪いの?」
 何度かチャイムを押しながら声をかけるのだが、反応がない。
 神田は今日は弥生と入れ替わりの出勤で、今は病院に向かっている頃である。
 弥生は神田の携帯に電話してみたが、応答はなかった。一瞬、考えて、五十嵐に電話してみる。五十嵐はすぐに出てくれた。

「あ、主任ですか、山本です。実は今、神田さんのアパートを通りかかったら、勇太君の姿を見かけて。
 勇太君、すぐに部屋に入っていったので、具合でも悪いのかなって呼んでみたんですけど、返事がないんですよ。
 神田さん、出勤の途中なのか、電話が繋がらないし、ちょっと心配で…」
 だいたい、そんな内容のことを何とか伝えると、五十嵐の返事を待った。

「うーん、勇太君って、4年生だったよね。留守番も慣れている子だし、山本さんはまず学校に行きなさい。大丈夫だから」
 五十嵐は、何か感じるものがあるのか、力強くそう言った。
「神田さんが来たらちゃんと伝えるから。事情、話してくれそうだったら、もう今日のうちに聞いてみるし。大丈夫よ、あとでメールするから」
 五十嵐の二回目の「大丈夫」に押されるように、弥生は自転車を漕ぎ出した。
 道々、いろんなことを考えて、結局昼食を摂れなかったことに気付いたのは、学校に着いた時だった。

 講義の合間合間に、弥生は何度か携帯を手にしてみた。でも、その日、五十嵐からのメールは届かなかった。
 それほど心配する事態ではなかったのかもしれない。具合が悪くて休んだけれど、だいぶ良くなり、退屈になってつい出てきたとか。それを咎められるかと思い、部屋に逃げ込んだのかもしれない。
 でも…。
 一人寂しそうにブランコに乗っていた勇太の儚げな姿を、弥生は忘れることができなかった。

 あくる日。
 弥生は20分ほど早く、家を出た。今日は神田と同じシフトである。もしかしたら話をする時間が取れるかもしれない。そんな期待もあって、自転車を漕ぐ足にも力がこもった。
 病院に着き、更衣室に入ると、果たして、神田は弥生を待っていた。神田も、弥生と話したかったようである。

「山本さん、昨日はすみません」
 神田がまず謝ってきた。あの、誰にも小さくなっていた頃の声をしていた。
 何があったかは分からないけど、その声が弥生には哀しかった。
「神田さん、お願いですから、またそんなふうに謝らないでください。
 あの時、勇気を出して乗り越えて、強いお母さんになったじゃないですか。
 一体何があったんですか?」
「すみません…」ともう一度言いかけて、
「あ、ごめんね、違うの。山本さんには本当に支えてもらったから、何かあると、つい弱い自分が出てきちゃうのよね。それが情けなくて」
「神田さん…」
「昨日、五十嵐主任から、山本さんが勇太を見かけた時の話を聞いて、ああ、やっぱり山本さんに関わってもらうことになるのかなって思ったの。
 でも山本さんなら、弱い自分を見せられるなって、そう思って。それでさっき山本さんの顔を見た時、なんかフッと気が緩んじゃったのかもね。
 変よね、私の方がずっと年上なのにね」
 神田が寂しそうに笑った。公園でブランコに揺られていた勇太の姿が重なった。

「神田さん、もしかしたら、勇太君に何かあったんですか?」
 神田が顔を上げて弥生を見つめた。
「うん…。
 勇太がね、ちょっとしばらくおかしかったのよね。それで思い切って、心療内科に連れて行ったの。
 子どもだから、胸のうちを聞き出すのに、先生もずいぶん時間がかかったんだけど、ようやく診断がついて…。
 それでね、あの男からDVを受けていたことがきっかけのPTSDだって言われたの…」

 神田がそこまで話したとき、更衣室のドアの向こうが騒がしくなってきた。同じシフトの出勤組がやってきたのだろう。
 早めに出てきた分の20分は、あっという間に過ぎ去っていった。
「明日、主任と3人で、ね。全部話すから」
 神田はそう言うと、何事もなかったように、更衣室に入ってきた同僚たちとあいさつを交わしながら、部屋を出て行った。

 次の日。
 手術はなかったものの何かと忙しく、結局、弥生が病院にいる間に話をする時間は取れなかった。それで、弥生の授業が終わったあと、外で会うことになった。
 といっても、神田は帰って勇太の世話をしなければならない。結局、神田が家に帰っている間に弥生と五十嵐が食事を済ませ、そのあと、神田のアパートに行き、前の公園で話すことにした。まだ4月半ば、夜になると肌寒いときもあったが、この日は夜になっても穏やかだった。

 弥生たちが神田の家に着くと、勇太の食事もちょうど終わったところみたいだった。
 弥生は部屋の中に顔を突っ込んで勇太を見付けると、「勇太君、こんばんは」と声を掛けた。一昨日、見掛けたことには触れなかった。
 勇太ははにかむように微笑むと、奥に引っ込んでいった。弥生たちが来ることは聞いていたのだろう。
 五十嵐も、奥に向かって声を掛けた。
「ちょっとお母さん借りるからね」
 神田は奥に行くと、
「すぐ前にいるから心配しないでね。戸、開けておいてもいいから」
 と、母親らしい、包み込むような声で諭した。弥生は、4年生なんだし、そこまで大事にしなくても、神田さん、本当に勇太君が大切なんだなと、最初は微笑ましくその声を聞いていたが、PTSDを発症したことと関係があるのかもしれないと、すぐに安易な発想を打ち消した。
 思った通り、勇太は、乳飲み子のように神田にまとわりついていることを、このあと聞かされたのである。

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