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2017年6月11日 (日)

「わたしをみつけて」それから…(6)

 午前中の業務が終わり、弥生はいつものように学校に向かった。
 それを見届けてから、五十嵐は事務局に鍵を取りに行った。
 しかし、「あれ、先ほど佐久間先生が持って行きましたよ」と事務員。「珍しいですね、ふだん、屋上になんて滅多に誰も行かないのに」と首を傾げる。
「あ、うん、ちょっと不要なものを置く場所がないかなぁって、ちょっと見たかっただけだから。急いでないし。あとでも構わないわ」
 あわてて誤魔化して、五十嵐は屋上に向かった。

 屋上には、ベンチが一つだけ置いてある。
 以前は自由に出入りできたときもあった。しかし、星見ヶ丘病院では一回もなかったが、屋上からの自殺が頻発した時があり、今はほとんどの病院が、屋上を閉鎖している。
 このベンチも、屋上が使われなくなったあと、単に処分されなかったというだけのもので、風雨にさらされて色褪せている。
 佐久間はそのベンチに座り、菓子パンを囓っていた。
「佐久間先生、もういらっしゃってたんですね。すみません、遅くなって」
 五十嵐が頭を下げた。
「大丈夫だよ。きっと長い話になるだろうから、少しでも早くから話し始めた方がいいかなって思って」
 特に愛想笑いをするでもなく、淡々と佐久間は応えた。
 決して無愛想だとかクールだとかいうのではない。佐久間の“地”がそうなのだろう。五十嵐もその“地”を理解するまで、けっこう時間がかかったが、今はもう慣れている。
 いやむしろ、誰に対しても誠実だし、分け隔てをすることもない。ただ、感情の表し方が、人より少しばかり乏しいだけなのだ。
 もしかしたら、長年、後藤前院長の陰に隠れて、無色透明の存在に徹してきたことが、この佐久間の“地”を作ったのかもしれない。

「お昼、まだなんでしょ? こんなので良かったら食べないか? あと缶コーヒーも買っておいたよ」
 やはり表情を変えずに佐久間が勧める。たぶん、佐久間なりに、気を遣ったり思いやったりしているつもりなのだ。五十嵐はありがたくその好意を受けた。

「で、恵美子さん、いや、神田さんは、どこまで話したの?」
 パンを頬張りながら、佐久間は聞いた。おそらく、一番気になっている部分だろう。
「恵美子さん、でいいですよ」
 五十嵐はにっこりと微笑んで、まずそう告げた。
「たぶん、一通り全部、話してくれたんだと思います。佐久間先生が、家族として神田さんを支えながら勇太君の治療に取り組むって決意している、ってことも」
 五十嵐は、もらったパンを指で小さく千切りながら、口に運んだ。
「そうか…。さっきも言ったけど、ぼくは、院長にはもう話さなければと思っていたんだ。でも恵美子さんがね、それはもう少し待ってくれって言うんだ。
 そのことは何か言ってたかい?」
「いえ、それは今初めて聞きました。でも佐久間先生、私、なんとなく分かるんですけど、神田さんは、やっぱりまだ迷っているんだと思います」
「何を? ぼくとの結婚をかい?」
「はい…」
「どうしてだろう…。ぼくは恵美子さんも勇太君も、何があっても最後まで守り抜くって、何度も何度も言ったんだけどなぁ。そんなに頼りなく見えるのかなぁ」
「いえ、佐久間先生、そうじゃなくて…。
 一昨年、DVを受けていた件は、もちろんご存知ですよね。
 あの時は、うちの山本がたまたま見付けて、でも山本は、子どものためにすぐに別れるべきって強く言ったんだけど、神田さん、最初は拒否したんですよねぇ」
「えっ、そうだったの? 何で? そいつのために苦しんでいたんだろ?」
「それはそうなんですけど…」

 あの時、神田は、「あの人に捨てられたら生きていけない」、そう言ったと、あとで弥生から聞かされた。
 DVを受けながらその男と別れられない女性は、けっこう多い。五十嵐は、立場上、そういうケースをいろいろと見てきた。ケガをするまで暴力を受け、病院に担ぎ込まれることも、少なくないのである。
 何をされてもその人が好き、というのは、むしろ稀であろう。愛情ではなく、依存心なんだろうと、五十嵐は思っていた。
 暴力を振るわれるというのは、言い換えれば、自分に眼が向いている、ということでもある。負の方向であっても、自分を見ていてくれる人がいることで、自分が存在していることを確認することができる。
 実際、男の呪縛が解けてから、神田は、男への未練などまったく見せなかった。

 でも、神田のそのセリフを佐久間にそのまま教えるのは、さすがに無神経すぎる。五十嵐は言葉を選びながら、ゆっくりと喋りはじめた。

「神田さんが不安に思っているのは、佐久間先生の誠意のことではないと思うんです。
 私は神田さんとは同年代だし、付き合いも長いから、たまに二人で呑みに行っては愚痴をこぼし合ったりしてきたんですよね。ま、勇太君がいるから、年に数回ぐらいのことですけど。でも、けっこう、互いのことは分かっているつもりなんですよね。
 佐久間先生は、神田さんの前の御主人のこと、お聞きになってますか?」
「うん、女を作って出て行った、ぐらいしか聞いていないけど…。勇太君と月に一回会うことになっていたけど、結局、一回も会いに来なかったんだろう?」
「ええ。これ、私が話すのはルール違反かもしれないけど…。
 神田さん、その頃は前の病院だったんですけど、ナースが足りなくて、とにかく忙しいところだったみたいで。勇太君が1歳になるまで産休を取っていたんだけど、病院から頼まれて、10カ月になる前ぐらいに、病院から戻ってきてって頼まれたんです。
 で、勇太君を乳児保育園に預けて仕事を再開したんですけど、御主人の浮気が始まったの、それからなんですよね」
「へぇ、そうだったんだ…」
 佐久間はパンを食べる手を止めて聞き入っていた。さすがに神田からその辺のことは詳しく聞いていなかったのだろう。
 五十嵐は話を続ける。
「それで神田さん、御主人よりも自分を責めたんですよねぇ。私の仕事が忙しいから、私がつい勇太ばかり構うから、って。実際、産休を短くされたぐらいだから、忙しかったのは事実だし、勇太君のことだって、まだ一歳にもなっていないんだから、手がかかるの、当然ですよね。
 だから御主人だって、本当は神田さんを支えなければいけないのに、それが重たかったのか、それとも元々女にだらしない男だったのか…」
 五十嵐はもちろん、元の旦那のことを良くは思っていない。神田から聞いただけの、一度も会ったことのない男だったが。
「でも神田さん、自分がいけないからって…。そういう人なんです。御主人に慰謝料も請求しなかったんですよ。養育費だけはもらうことになっているみたいですけど、それも時々滞っているみたいで…」
「ああ、養育費のことは聞いているよ。でも結婚したら、そんなの当てにする必要なんかないのにって言っているんだけどなぁ」
「いえ、佐久間先生、だから神田さんは、先生の気持ちを疑っているのではなくて、自分が我慢することで人に迷惑をかけなくて済むなら、そうしたい、っていう考えをする人なんです。
 勇太君と二人でひっそりと暮らしていけば、佐久間先生にも別な可能性が開けるんじゃないか、って。
 でもそれって、依存心の裏返しだと思うんですよね。本当は佐久間先生に寄りかかりたい。でも寄りかかることで、佐久間先生に重たいものを背負わせたら、また離れていってしまうんじゃないかって」
「だからそれは――」
 佐久間が言いかけたのを五十嵐は遮って続ける。
「それとね、佐久間先生。先生、まだ神田さんにきちんと『結婚して下さい』って言っていませんよね」
「いや、それは――」
 佐久間は虚を突かれたように言葉をいったん飲み込んだ。
「いや、そんなことはないさ。そりゃそういう言葉は言わなかったかもしれないけど、勇太君の病気を三人で乗り越えていこうって、それは何度も言っているんだから、それがプロポーズだって分かってくれているはずだよ」
「先生、それはダメですよー」
 五十嵐はわざと厳しい顔つきをする。
「女性はですね、そういうけじめの言葉がすごく大事なんです。確かに、そういうことが気にならない女性もいますよ。でも少なくとも神田さんは、その言葉が大事なんです。いろいろ傷付いてきているから、そのけじめの言葉で次の一歩を踏み出すことができるんです」
 五十嵐は熱く語る。
「……うーん、そういうものなのか……」
「そうですよー」
「いや、お恥ずかしい話なんだけどさ、ぼくは恋愛経験がもちろんまったく無いわけではないんだけど、結婚したいと思える女性に出会ったのは初めてなんだ。ただ、この年齢だろう? 甘い恋愛気分はもういいのかなって…。
 それで勇太君の病気をどう乗り越えていくか、そういう生活設計というか、人生設計というか、そっちの方が大事かなって思ったんだよね」
 佐久間はそう話すと、缶コーヒーを口に含んだ。きっと恵美子以外に、自分の心の内を見せたことなどほとんど無くて、喉がひりついたのだろう。
 五十嵐はそんな佐久間がなんか可愛く思えてきた。
「そりゃ神田さんだって、甘い恋愛気分に浸りたいなんて思っているわけではないと思いますよ。でも先生、くどいようですけど“けじめ”ですから、それは本当にお願いしますね」
「いや、わかったよ。いゃあ、まさかここで主任から恋愛指南を受けるとは思わなかったな…」
 そういって佐久間は苦笑した。別に気分を害したわけではなさそうだ。
「私は神田さんにずっとここにいてもらいたいと思っているんです。でも勇太君の治療が長引いて勤務に差し障りが目立つようになると、神田さんのことだから、絶対に辞めるって言い出すと思うんですよね。
 だから、浜田院長も後藤事務長も巻き込んで、病院を挙げて神田さんの味方になるよ、って。そこを神田さんに分かってもらいたいんです」
「うーん…。
 正直、ぼくは、ぼくたちの個人的な問題としか捉えてなかったけど、確かに主任の言う通りかもしれないな。
 わかった。まずきちんと結婚を申し込んで、そして院長にも事情をすべて話すよ。事務長にも、ぼくから言った方がいいのかい? プライベートな話はあまりしたことがないんだけどな…」
「いえ、事務長には、折を見てこちらから話します」
 佐久間はおそらく、雅之の弥生への想いなど気付いてはいないだろう。もちろん、今、教えるべきことでもない。でもいろんなことが順調にいけば、そう遠くないうちに、神田と佐久間に続く職場結婚が見られるだろう。
 この時の五十嵐は、そう予感していた。

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