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2017年6月 9日 (金)

「わたしをみつけて」それから…(4)

 初めのうちは、デートといっても、必ず三人で会うようにしていた。
 勇太は特に人見知りする方ではなかったが、母親の目から見ると、やはり佐久間に対しては、どこか微妙にぎこちなさを感じることもあった。
 四年生なので、「お母さんの新しい恋人」ということも、気付いているに違いない。それが、この微妙な距離感なのだろうと、初めは思っていた。
 そうした中で、佐久間も神田も、そろそろ二人だけの時間を持ちたい、という気持ちも募っていった。そして一カ月ほど前、初めて二人きりで逢ったのである。
 もともと勤務時間が不規則なのは、十分慣れている勇太である。緊急の措置で二時間、三時間の残業になることも少なくない。一本の電話を入れておけば、そういう時のために用意している食事を自分で食べ、明日の仕度を自分でして、一人で寝ることもできる。
 なので、佐久間と二時間ほどの逢瀬を持つことに、特にうしろめたい気持ちはなかった。

 しかし、その晩――。
 勇太が、夜中に突然叫び、神田の布団にもぐり込んでしがみついてきたのである。
 きっと怖い夢でも見たのだろうと、初めは軽く考えていた。しかしその“現象”は、その日から毎日続いたのである。
 それでも、神田にくっつきながら眠れたときは、まだ良かった。起きて、何とか学校にも行くことができた。しかし時には、朝まで震えて寝られない日もあった。そうなると、次の朝は、学校に行くどころではなかった。
 もう、ふぬけたように、目の焦点が定まっていない気がした。学校は休ませるしかなかった。そしてそんな日が何回か重なると、さすがに担任の先生が、心配して来たのである。1年半前に虐待を受けたことを知っている担任は、心に何か影を落としているのではないか――そう指摘し、専門医に診せることを促した。
 神田も、そこはさすがに医療に携わっている身である。自身、薄々、そのことを疑っていたこともあって、素直に従った。

 最近は、外科の入院患者にも、うつ“病”まではいかなくても、うつ“傾向”に陥る人が、格段に増えている。看護師も、そのことを意識した対応をしないと、あらたなメンタルヘルスを発症しかねない。
 そういう研修も、看護師たちは順番に受けてきた。なので、精神科や心療内科の受診を、外聞を気にしてためらうことが何のプラスにならないことも、よく分かっていた。

 勇太の場合、けっこう早くに診断が着いた。直接的な原因は、1年半前のDVにある――そう見当を付けていたことが、早期の診断につながった。
 ただ、単純なフラッシュバックではなく、きっかけは佐久間の登場だった。
 あの時、勇太にとって一番辛かったのは、自身が虐待を受けたことよりも、大好きな母親が目の前で暴力を受けながら、それを庇えなかったことだった。
 男と別れて平穏な生活を取り戻したといっても、それはずっと心の中に闇として眠っていたのである。
 そして佐久間という男が、今また、母親との二人の世界に闖入してきた。

 確かにやさしい人だった。自分にはもちろん、母親にも、少なくとも自分の見ている前では、手を上げることなどなかった。
 でも最近、どうやら自分のいないところで二人で逢っているみたいだ。自分のいないところで、もしお母さんがぶたれたりしていたらどうしよう。自分はまたお母さんを守ることができないのか。あの時よりも、大きくなったのに――。
 そんな不安が津波のように心に押し寄せ、ついに防波堤が壊れたのである。それ以来、勇太は必要以上に母親に強く依存するようになっていった。とにかく、無事な母親の姿を見ていないと気が休まらない。不安になるのだ。
 学校も、何日か休んだあと、何とか行くには行ったが、心ここにあらず――という勇太の様子に担任はすぐに気付き、かつての虐待と結びつけた。そしてその日のうちに、母親に連絡したのである。

 診断は付いたものの、治療方針は簡単に立たなかった。
 神田は初め、佐久間と別れれば勇太が元に戻るものと簡単に思っていた。実際、そのことを佐久間に話し、ひとまず、付き合いをなかったものにしようとした。
 しかし、スイッチを切ったら灯りが消えるようには、勇太の“症状”は簡単に治まることはなかった。

 心療内科の医師は、それは当然だ、と説明した。
 もともと自分の中にあった、「お母さんを守れなかった」という負い目を、無意識のうちに心の内にしまい込んでいただけである。それが意識と無意識の中間に噴出してきて、不安感や不眠などの具体的な症状を引き起こしているのである。
 時間が解決する場合もあるが、医師は、「あなたも、あなたの新しい恋人も医療に携わる人だから」という前提のもと、三人で積極的に乗り越えていくことを提案してきた。

「もちろん、こうすれば良い、という明確な解決の道筋は、今はありません。いろいろ試行錯誤し、勇太君の反応をきちんと見ながら、その都度、次の一歩を見付けていくしかないと思います。でも、時間による解決よりは、より根源的な克服になるはずです」
 そう医師に説明され、神田はその提案を、一旦は受け入れた。
 しかし問題は佐久間である。
 まだ付き合いだして日も浅い。そこまで佐久間に求めるほど、二人の絆が確かなものになったとは言い難い。佐久間に重いものを背負わせるよりは、今、ほんのわずかばかりの二人の思い出を、無かったものにする方が、佐久間にとっても、この先の人生の可能性を広げることになる。
 そこまで考え、神田は佐久間に別れを告げた。それが、先週のことだったのである。

「それで、佐久間先生は何て?」
 神田恵美子の長い話が、やっと“今”に追いついたところで、五十嵐菜奈の矢継ぎ早の質問が始まった。弥生も聞きたいことはいっぱいあったが、まずは、上司でもある五十嵐に譲るべきだと思った。弥生はいくつもの質問をひとまず飲み込んだ。

「佐久間先生はね、自分にも背負わせてと言ってくれたんです」
 神田は淡々と答えた。

 勇太のPTSDが分かったとき、「付き合っていなかった時」に戻れば、勇太も元に戻るのではないかとの、二人の単純な発想に対し、担当の医師は、「三人で乗り越えたら」とアドバイスしてくれた。
 それは二人が医療のプロであることに依るところが大きかったが、佐久間は、別の感慨を抱いた。医師だから、ではなく、この先、本気で家族として母子二人を支えていく気があるのかどうかを、何者かから突き付けられたような気がしたのである。
 だから、神田から「あなたは私たちに縛られないで」と言われたとき、言下にそれをはねのけた。
 二人を家族として迎えるのではなく、自分が、二人の家族になりたい、今、心からそう思っていることを伝えたのである。

「あらー、佐久間先生って、真面目なだけじゃなくて、なんていうか、男気もあるのね」
 五十嵐は微笑みながら弥生に同意を求めた。弥生も笑顔を返す。
「じゃあ何も心配すること無いじゃない。そりゃ、治療はこれから辛い道のりを歩むかもしれないけど。でも佐久間先生がそこまで支えてくれるって言うのなら。それとも佐久間先生の想いに、何か不安を感じたりするの?」
「いえ、そんなことはないです。佐久間先生の誠意は、本当にありがたい限りで…」
「じゃあ、何?」
「やはり勇太のことなんですよね。本当に三人で乗り越えていくことが、勇太のためになるのかどうか。
 三人で乗り越えていくっていうことが、治療のプロセスとして有効だっていうことは、それは私にも分かるんです。
 でも佐久間先生とお付き合いしたことが勇太の心を壊すきっかけになったのに、勇太が、乗り越えていくまで耐えられるのかどうか。もしかしたらもっと悪くなるんじゃないか、って」
「その点は、担当の先生はなんて仰ってるの?」と五十嵐。ふいに看護師の顔になっている。
「可能性はゼロではない、って。でも、心の中の闇を、ただ目をそむけて忘れさせるだけなら、いつまた顕れてくるか分からないし、それは大人になっても変わらないって仰るんです。
 それよりも、今は年齢的に無理だとしても、10代後半くらいからなら、それを客観的に見られる自分を作ることができる、って」
 神田は話しながら、やや涙声になっていた。
「分かった。とにかく、あなたが今、元気がないのは、そのことなのね。いずれにしても、今ここで結論を出せることではないから、私も考えてみる。
 とにかく、あなたが元気がないと、他のナースへの影響も大きいし、なにより患者さんがそういうことに敏感だから。
 大丈夫、若いナースにはお調子者やちゃっかりさんもいるけど、みんな、あなたの味方だから。そうよね、山本さん」
「え? は、はい!」
 急に振られた弥生は、神田に釣られたのか涙目になっている。でも、自分にできることは何でもしてあげたい――既にそういう気持ちだけは固まっていた。

「で、みんな心配しているんだけど、どこまでなら話してもいいかしら」
 たぶん、五十嵐が一番聞きたかったことかもしれない。
「ええと…」
 神田もすぐには思い付かない。
「佐久間先生とお付き合いしていることは、まだ内緒にしておくつもりなの?」
「……勇太のことがなければ……」
 ちょっと言い淀みながら、神田は続けた。
「二人だから話すけど、まだ言葉として正式にプロポーズされてはいないんですけど、佐久間先生は、結婚のこと、考えて下さっていると思うんです。プロポーズもまだなのに、将来のことはいろいろと話してくるから…。
 だから勇太のことがなければ、正式に結婚を申し込まれたら、ちゃんとみんなには話さなければと思っていたんです。でもこんなことになって…。
 佐久間先生とのこと、私、まだどうしたらいいのか、はっきり決められないんですよね。何か、あの時と同じよね」
 神田は弥生に顔を向け、自分を嘲笑うような顔をした。
 “あの時”というのは、弥生にはすぐに分かった。一年半前、神田母子が男からDVを受けていたのを見付けたときのことである。
 子どもを虐待するような男とはすぐに別れるべき、と、弥生が強く訴えたときに、神田は、「あの人に捨てられたくない」と、一度は男を庇ったことがある。
「神田さん、あの時とは全然違うと思います」
 今日の話の中で、弥生はようやくまともに喋った気がする。
「だって、自分のことしか考えていないあの男と違って、佐久間先生は二人の未来をちゃんと考えてくれているじゃないですか」
「……」
 神田はやはり即答できない。
 五十嵐はそんな二人の沈黙をを引き取るように言った。
「とにかく、佐久間先生のことはひとまず置いておこうか」
 今日、私たちに話してくれたことが、神田の第一歩には違いない。一歩を踏み出してくれたことで、二歩目をどこにおくか考えることができる。そして三歩目、四歩目と、左右に振れるかもしれないが、道を進むことができるはずだ。
 そんなことを思いながら、五十嵐は結論を言い渡した。
「勇太君が、以前の虐待でフラッシュバックを起こしている、ぐらいに、みんなには話すわね。でも、既に専門の医師にカウンセリングを受けて治療に踏み出しているから、あなたたちは興味本位で口を挟まないで黙って見守ってあげててね、って、そんな感じで強く言っておくから。それでいい?」
「はい、主任、本当にすみません」
 神田はこれに同意した。
 五十嵐主任、いざという時にけっこう決断が早いな、と弥生は少し見直した。

 話はこれで終わりそうだったが、弥生はどうしても勇太のことが気になってしかたがない。数少ない、弥生の友だちである。
「ねぇ、神田さん、勇太君、今はどうなんですか?」
「山本さん、ありがとう、勇太のことをいつも気にかけてくれて。
 今は佐久間先生と外で会うのを控えているから、そのためかどうかわからないけど、少しは落ち着いている感じがするの。
 でもまだまだ私にべったりだし、一昨日みたいに、どうしても学校に行けないときもあるのよね。お医者さんも学校の先生も、無理をさせるなって仰っているから、今は勇太の気持ちに任せている感じなの」
「そうですか…。ねぇ、今度会いに来ていいですか?」
「勇太に?」
 神田は一瞬、考えて、
「ありがとう。そうね、山本さんなら、勇太、会ってくれるかもしれないわね。まず聞いてみるわね」
 神田の顔に少し笑みが戻ったように、二人には見えた。

「それともう一つ」
 五十嵐がちょっと厳しい雰囲気を出しながら言った。
「私と佐久間先生と、二人で話していいでしょ?
 確かにあなたのプライベートなことだけど、二人とも同じ職場で、さっきも言ったけど何かと影響があるし、スタッフも患者さんも、勘のいい人はもう気付いているかもしれないし。
 別に上司風を吹かすつもりはないけど、長く一緒に働いてきた仲間として、やっぱりきちんと佐久間先生の気持ちを確かめておきたいの。
 それに…」
 と弥生の方を向いて、
「藤堂師長だったら、絶対にそうすると思うんだ」
 弥生は思わず顔がほころんだ。
「確かにそうですね」
 弥生と五十嵐は声を出して笑った。
 神田は、気にかけてくれる仲間がいる嬉しさと申し訳なさがない交ぜになったような顔をしていた。

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